学校で倫理を教えています。
16世紀頃にモラリストと呼ばれる人々が登場し、
人間の真実の生き方について探求しました。
(モラリストといっても道徳家のことではありません)
その代表がモンテーニュです。
彼は、ユグノー戦争という宗教戦争を目の当たりにし、
人々を救うために生まれた宗教ですら凶暴性を持っていることを痛感し、
「ク・セ・ジュ(私は何を知っているのだろうか)?」と、
人間の限界を思い知ったのでした。
そして、なぜこのような悲惨なことになったのか、
その原因を自己反省の欠如にあると考えました。
つまり、人々の独断や偏見、傲慢が問題であり、
常に自己の人間性を吟味しなければならないと考えたのでした。
福岡で中学生がいじめにより自殺した事件で、
そのいじめの発端となったのは学年主任の発言であったと報じられています。
この学年主任は主任になるまでの人間なわけで、
ある意味「ベテラン」といわれていたことでしょう。
そこでの慣れと傲慢。
彼はその立場に寄りかかり、人のことを考えることを忘れてしまった。
世にはいじられキャラという人がいるかもしれません。
その場を盛り上げるために、という理由にもならない理由で、
人前で辱めを受ける人がいるかもしれません。
そういう人がいたとして、教員がそれに加担するのはどうなんでしょう。
教員がそれを主導するのはどうなんでしょう。
教員は生徒とは立場が違うんですよ。
「先生が言っていたから」という言葉で何でも正当化されてしまう。
軽い気持ちでも生徒をからかい、悪口を言う、
それは「彼をからかってもいいんだよ」と生徒に受け止められても仕方ない。
同級生からだけなら何とか反抗できるかもしれないけど、
教員が加担していたら抵抗するのはかなり難しい。
いじめなのか、からかいなのか、
いつもその境目について議論されることがありますが、
教員が加担してしまうとすべてが「正当化されたからかい」になってしまう。
おそらく、この学年主任は、
人の悪口を言うことくらいでしか授業が盛り上げられない、
生徒の興味をひきつけるだけのものを持っていない、
そんな魅力のない人なんでしょう。
クラス作りの一環でこんなことをやっていたのかもしれません。
いつもそうやってクラス作りをしてきた。
それで問題なんて起こらなかった。
いつものことだという慣れ。
エスカレートしていき、ひどいことをいっていても気にならない。
麻痺している状態。
「一生かけて償います」と言ったそうですが、何をするのでしょうか。
彼が唯一できた償いは、
彼のようにはなるまいと何人かの教員に思わせたことくらい。
それ以上のことができるのか。
教員の言動はとても影響力を持っていると、
ちょっと前に友人と話したときに実感しました。
自己の人間性の吟味を怠らないこと。
懐疑の念を失わないこと。
ナイフ、拳銃、ミサイルを使わなくとも、人の命は奪われるのです。
2004年からブログを書いています。思ったことを気ままに書いていますが、旅に出るとその記事で埋まっていきます。旅行は日本国内が中心で、2022年6月に旅をした和歌山県をもって、47都道府県すべてを訪れたことになりました。好きなアーティストのライブにもちょいちょい行っています。
文系学部卒だけど理系脳なのか?という感じ。
このブログではできる限り政治に関する発言は控えようと思っていますがたまに漏れ出します。その辺のことはX(旧twitter)でがっつりつぶやいてます。