やっぱり読書ぎらい

今日から仕事が始まりました。
といっても、実働数時間なので、行ってすぐ帰ってくる感じ。

学校が始まるのは今週からだけど、俺の授業があるのは来週から。
しかも、半分は生徒の発表を見る時間なので、なんだかなーって感じですね。

さて、今日はその仕事から帰ってきてから、
読書というのかなー、文章を読んでいたのでした。だいたい3時間かな。

読んでいたのは、句会の模様が収録されている雑誌(冊子)なんだけど、
雑誌を読むのっては読書にあたるんでしょうかね。

テレビをかけながら読んでいたんだけど、
ふと、俺は読書が嫌いじゃなかったのか?と思ったのでした。

たしかに、俺は読書が嫌いで、文章読むのが嫌いで、
なのに、句会の模様が収録された雑誌『蜉蝣』は読んじゃうんだよね。

句会の模様だけじゃなくて、他に掲載されている文章も。

ってことは、別に読書嫌いじゃないってことなんだろうな。

うーん、どっちなんだろう。

そこで思い出したのは、司書教諭資格取得のための科目の内容でした。

「読書と豊かな人間性」という科目の中で、
今の子どもたちには読書以外にも楽める要素がたくさんあるので、
読書に向かわなくなっていると。

そこで、読書を強制するのもいいんだけど、
その読書の強制は読書嫌いを生み出していると。

で、それに対して俺は、そんなことあるのかなーと思ったんだけど、
ふと、俺の読書嫌いもまさにそうなんだなと気づいたのです。

今さらだよね。気づくの遅いよね。

今までしていた読書ってのは、楽しむ読書ではなかったわけね。

読書感想文を書くための読書、定期考査のための読書(高校時代の課題図書)、
レポート書くための読書、ゼミのレジュメを作るための読書、などなど…。

どれにも共通しているのは、内容をしっかりおさえなければいけないってこと。
適当に読んだりじゃダメなわけ。雰囲気をつかむじゃダメ。

実際は雰囲気つかむだけでもいいのかもしれないけど、
それじゃダメだと俺は思っていたわけ。

だから、ふと読み飛ばしたところは戻って読まなければいけない。
意味がわからないところは何度も読んで理解しなければいけない。

それがいやだったんだよね。

本は文字だから、戻って読むことができるわけね。
でも、テレビやラジオや映画は戻れない。だからあきらめがつく。
授業もそう。戻ることはできないのであきらめがつく。

ってことは、ある時間が過ぎれば終わる。エンドレスではない。

だからといって、集中してないとあとでガッツリ後悔するけどね。
おれはちゃんと授業聞いてたから、あまり後悔しない組でしたが。

それはいいとして、でも、本は違う。いくらでも戻れる。
戻るといやになる。イライラしてくる。

高校の時なんか、登場人物の名前の読みを確認するために、
毎回初めの方に戻っていた記憶があるわけで、
そこを、まあいいや、ってスルーできるならいいんでしょうけど、
俺はできなかった。

だから、その点で俺には読書は向いてないんだろうな。

今日読んだ雑誌は、別に戻らなくても大丈夫。
(といっても、気になるから戻ったりするんだけど)
まさに楽しむための読書になっている。だからずっと読んでられる。

楽しむ読書ってのをうまくできない俺は読書好きから見れば不幸なんだろうな。

読書を強制せずに読書好きを増やすのは難しいことだけど、
一番の手は、読書がいかに楽しいかを伝えること、
読書を楽しんでいる姿を見せることなんでしょうね。

でも、それは子どもにはなかなか通用しなそうですけど。

あ、この記事は別に、
読書好きの人が適当だとかいう主張をするものではありませんので。

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