憲法のない国に

集団的自衛権の行使を可能とするために、
憲法解釈を変更することが間もなく発表されようとしています。

集団的自衛権の行使を可能にするかどうかは、
日本の安全保障や他国の協調関係を考えて適切に判断すべきもので、
今回の件とは基本的には関係がないと考えています。

行使すべきであったとしても、
今回のようなやり方で行使を可能にすることは断じて許されないことです。

そもそも憲法とは何かがわかっていない。
まさに立憲主義の否定です。憲法なんて意味がないことを示したのです。

日本国憲法の改正には国民投票が必要だと書いてありますが、
今回の件は、国政選挙での争点にすらなっていません。

そのなかで、一内閣が、一首相が恣意的に憲法解釈を変更することは、
正規の手続きを経ない、まさに憲法違反のやり方です。

これを許せば、今後、日本国憲法はいかようにも骨抜きにできてしまいます。

人権の制限もできるでしょう。中国のような一党独裁も可能でしょう。

さすがにそんなことは起こせないと思うかもしれませんが、
あの第9条の条文でも自衛隊は持てるし、集団的自衛権も行使できるんですよ。

自分の国が攻撃すらされていないのに、兵力を派遣できるんですよ。
どうやって読んだらそれが可能になるんでしょう?

人権については「公共の福祉に反しない限り」という文言がありますから、
そこの解釈を変更すれば、人権の制限はいくらだって可能になります。

表現の自由を制限すれば、一党独裁だって可能です。

国会は「全国民を代表する選挙された議員」で組織されるとあって、
選挙をしさえすればいいわけですよね。直接選挙とは書いてありません。
国会議員を国民が直接選ぶことができないようにすることも可能です。

第14条の差別規定も、例示的列挙ではなく限定列挙だと解釈して、
信条とは生まれながら持つ嗜好・指向のことであって、
事後的に持った思想はこれには当たらないと解釈してしまえば、
かつての治安維持法のようなものを作ることも可能です。

そんな極端なことを、と思うかもしれませんが、
解釈なんていくらでもできるんです。
もう一度言いますが、第9条がまさにそうではないですか。

第9条意外にも、解釈でどうにか乗り切っている条文は他にもあるんですよ。
文民規定、裁判官の報酬減額、私学助成金などなど。

そうはいっても、今回の解釈変更は必要なことなのだから、
こういう形でも仕方がないと思っている人もいるかもしれませんが、
そう考えている人たちが一番危ないと思います。

真っ当な改憲派は、こんなインチキな方法ではなく、
正々堂々と憲法改正をして行使を可能にすればいいと言っています。

必要なものは正規の手続きを経なくてもいいというなら、
憲法どころか、そもそも法律は必要ありません。

私は2012年12月16日に、
2012.12.16は、日本の終わりの始まりの日。
と書きました。

まさに、また一歩終わりに近づきました。

この記事が、このブログ「KEYNES」の記念すべき2000記事めです。

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