吉野ヶ里遺跡を巡る・前編

今日は夕方から雨。仕事帰りに強く降られて残念な感じでした。

ということで、旅の話は終盤に差し掛かっていますが、吉野ヶ里遺跡を見てきました。
園内マップにルートのようなものが書いてあったので、まずは南内郭へ。

その近くに展示室があったので、まずはそこでお勉強。
大きな甕に入れて埋葬していたということと、激しい戦いをしていたことがわかりました。

頭部だけ残っていない人骨とか、矢じりをお腹に打ち込まれた人骨が展示してあって、
そんなに大変な時代だったというのがちょっと意外というか、本当なの?って感じで。

南内郭は支配者層が暮らしていたエリアということで、おうちも広めでした。
櫓の上から声をかけてもらって、上からは遺跡全体が見える感じでした。

そこにいたガイドさんに、家の大きさについて聞いてみたところ、
家の大きさは、中で火をたく炉の大きさと関係しているということを教えてもらって、
だったら、三内丸山遺跡だと小さくなるのか?という聞いてしまいました。

三内丸山には行ったことがあって、あそこにはかなり広い竪穴式住居があるんですよね。
そんなことすっかり忘れていて、大きなのありますよって教えてもらいました。炉は3つあるって。

で、そこからいろいろ話してくれて、そもそも、当時の青森は今の佐賀と同じ気温ですよって。
たしかに、縄文海進ってありますものね。そうか、そういう視点が必要なのかと。

歴史を学ぶときに、縄文の次は弥生で、狩猟をやっていたのが農耕に変わって、なんて形で、
あたかも連続しているように感じてしまうんだけど、全然連続してないんですね。場所が違うし。

そのガイドさんは、社会と理科を一緒に教えなきゃいけない、って話していたけど、
まあ、理科というよりは地理なのかなとも思いますが、まったくもってその通りだなと。

その後に海も引いてきて平野ができたから農耕に適している土地が生まれて、
大陸と陸続きになるから、そこで稲作が伝来して、武器も伝わって、戦争も起きて…、ということだと。

その後、ヤマト政権の支配もあって平和を重視する時代になったというのがガイドさんの見立て。
大陸の好戦的な考えは日本人にはなじまなかったのではと。展示室での違和感が腑に落ちました。

ガイドさんもなかなかお話をする機会がないのかもしれないので、
ちょっとついただけでどばーっとお話をしてくれましたが、本当にためになりました。感謝です。

でも、お話していたのは10分くらいだったんじゃないでしょうかね。
三内丸山遺跡の時はガイドツアーに参加したのですが、そこまでの時間がなくて。

みなさんもぜひ、あちこちに立っているガイドさんに話しかけてみてください。
ここまで来てしまったので、後編に続けます。

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